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私の読書日記(4) 格差社会の労働を救済する

 

『経済セミナー』200811月号所収後に加筆修正

橋本努


 高卒で職を転々として、今はベルトコンベアにはりついて流れ作業をしている。時給655円で週休1.5日。うまく流れについて行けないから残業もある。残業代は出ない。そんな辛い生活をしていて、ときどき感じることがある。「親のすねをかじっているニートのほうが、最低なんだ。いいからとにかく働けよ!」と。こんなふうに、自分よりも立場の弱い者を批判するというのは、やはり心が貧しいからだろうか。

自分が嫌いだから、もっと弱い人を批判する。しかも精一杯に。手と手を取り合う余裕がないのである。景気の後退とともに、不安定労働者たちは、ますます他者への猜疑心を募らせていくのではないか。それほどまでに貧困な精神を生きざるを得ないプレカリアートの労働現場がある。

 そんな最中の去る六月、秋葉原で連続殺傷事件が起きた。「勝ち組なんかみんな死んでしまえ」と携帯サイトに書きこんだのは、二五歳の派遣社員だった。容疑者は「勝ち組」を制裁すると称して、秋葉原の歩行者天国に向かったのだった。

 事件後にさまざまな議論が噴出したが、さすがの保守派も容疑者の派遣生活を「自己責任」と一蹴することはなく、雇用をめぐる事態の深刻さが、あらためて浮き彫りになった。八月になって政府は、日雇い派遣労働を禁止する法案を可決する。低賃金で不安定な就労者たち(プレカリアート)の生活に、一応の歯止めをかけたかたちだ。

 いったい労働なるものは、どれほど人間の生を貧しくするのだろうか。この古くて新しいテーマをめぐって、どうも最近の経済学者たちは、論じ損ねているのかもしれない。マクロ統計論議も重要だが、しかし現実問題として、雇用環境の大きな改革は望めそうにない。貧者/弱者を救うためには、制度改革の議論よりも、当事者の生活に密着したルポや、街頭デモのような労働運動のほうが、重要な意義を帯びてくる。当事者たちが自らの問題を、実存の言葉で語り、表現し、訴える。そのような活動のなかで、はじめて自分の魂が救われる、ということがあるからだ。『蟹工船』のようなプロレタリアート文学も、よく読まれているという。「貧困を救済する」という使命は、いまやエコノミストたちから、活動家や文芸家へと、次第に移ってきているのかもしれない。

 最近の労働論のなかでも卓抜していると私が感じたのは、雨宮処凛著『プレカリアート』(洋泉社)と『生きさせろ!』(太田出版)だった。どちらも低賃金労働者たちの生活や労働運動に密着したルポを含んでおり、その生き生きとした筆力に、自分まで勇気づけられてしまった。むろん勘違いなのかもしれないが、センやヌスバウムの潜在能力(ケイパビリティ)論や、あるいはフリーター論やプレカリアート論などの貧困論には、一般の庶民にも喝と元気を与えてくれるような効果がある。貧困問題に取り組む人々は、現代人の心がいかに貧しいか、という現実に気づかせてくれる啓蒙家だ。

 昨年刊行された雑誌『フリーターズフリー』の第01号も、読みどころ満載の熱気に包まれた編集で、とくに杉田俊介氏の大作「無能力批評」には大いに触発された。介護労働を本職とする著者のこの長文批評は、「おまえらは勝手に」と突き放して自分の境遇を語るのだけれども、まるで神の下で貧者を救う「賛歌」のような魅力がある。就職の採用試験で落ちつづけた経験をもつ著者は、それを経済的な意味での無能力の烙印と捉え、無能の現実から出発する。無能力な存在、弱き者は、しかし、自分の人生を支えるかけがえのないものを最後に奪い取る敵である。だが、その敵を愛することによって、小さな恩寵が変奏的に訪れるという。生きることと批評の精神が合体した、稀有な論稿だ。

 就職活動をしても、自分が労働力の商品としてなかなか売れない。売れたとしても、使い捨てられる商品にしかならない。そんな資本主義の現実を鋭く批判したのは、リチャード・セネット著『不安な経済/漂流する個人』(大月書店)。不安定で断片化された社会条件の下で成功できるのは、ある特定の人間にかぎられている。それは例えば、業務が変わっても自己を律するために、「自己感覚ぬきの状態」で暮らしていける人たち。一芸に秀でるのではなく、こだわりを捨てて、機動性としての潜在能力を評価される人たち。つまり過去とあっさり訣別できる人たち。あるいは、真に創造的なのではなく、ネットワーキングが上手で、コンサルタント的な能力のある人たち、云々。ようするにセネットによれば、軽薄でのめり込みの少ない人たちのほうが成功する、というわけだ。成功者たちはつまらない人間である、という氏の議論は、「人間の魅力とはなにか」という根本問題に、私たちを連れ戻してくれる。

 これは魅力的と言っていいのかどうか、しかし痛快なパンチのある本に出会った。矢部史郎/山の手緑著『愛と暴力の現代思想』(青土社)である。無産階級のアナキズムを地で生きる著者たちの筆は、「臭いものには蓋」式の官権力や日常社会を徹底的に風刺していて面白い。例えば、正規雇用の労働者たちは「経験豊富だとかいって、まずたいてい話がつまらない」のだから、有罪。邪魔だから排除しよう、非正規雇用化しよう、というのである。あるいは現代のプロレタリア運動は、災害時における人々の「団結」や「生きた労働」の復活に望みをかけることくらいしかできず、知的貧困に陥っていると批判する。確信犯的だが享楽に満ちた文体で、現代の労働問題を鋭く抉り出している。

 入江公康著『眠られぬ労働者たち』(青土社)は、魂の入った労働の書だ。アナキズム、あるいはサンディカリズムの新たな理論的地平を切り拓いている。グローバル化やネオリベラリズム化のなかで、自らの〈力能〉を奪い去られている労働者たち。彼らの集合的な潜在性と力を顕在化させようという氏の試みに、大いに共感した。現代の資本主義は、IT産業の興隆とともに、豊かなコミュニケーション能力や、関係を作る能力(たとえば落ちついた雰囲気をつくるとか親身になるといった力)をも資源として組みこんでいる。けれどもこの社会でうまく立ち回れない人々は、けっして無能なわけではない。ホームレスに対する差別や侮蔑は不当であって、彼らの「不幸を糧」にして生きるような人々がいるかぎり、ホームレスには月50万円の所得を保障すべき、と主張する。この議論がまともにみえるのは、私たちの社会がもはや「全体としての上昇」を望めず、「自分よりも下の人間を貶めて明日の生活のエネルギーを得る」という、貶斥社会になっているからではないか。

 下の人間を貶めないで生活するには、やはり最低限のプライドをもって生活する環境が必要だ。問題は「必要なプライドとは何か」だ。湯浅誠著『反貧困』(岩波書店)は、それを「溜め(capability)」と呼んで、溜めの欠如を貧困と呼ぶ。例えば、親密な人がいなくて、過去の自分に誇りがない。もう人生に「再チャレンジ」できないほどズタズタになってしまったとしたら、どうだろう。私たちは諦めをもって、貧疎な現状を受け入れるほかないだろう。けれども友人とか貯金とか、何らかの「溜め」があれば、前向きに生活していくことができる。そのための「溜め」を作っていくことが、真の貧困対策になると湯浅氏は論じる。「溜めが枯渇する」というのは、もしかすると、日本経済の全般に当てはまるのかもしれない。溜めがないから、下層を批判して冷笑的になる。まずそういう心持を避けて、貧困克服の歩を踏み出したい。